原生生物と日本産アリ類の広域画像データベース

5 今後の課題

5-2. 研究者による素材情報公開の必然性と意義


 既述したように,従来の研究システムでは,研究成果のみが論文として科学ジャーナルなどの媒体を通じて公開(公報)されていた。しかし,近年急速に発達したコンピュータネットワークを媒体として利用すれば,より効率的かつ大規模に情報公開を行なうことができる。その代表例が遺伝情報データバンクである。遺伝情報データバンクの最大の特徴は,素材情報としての塩基配列情報の公開・共有を目指している点にある。これは従来の科学メディアにはまったくなかった特徴であり,それが実現できたのは,まさにコンピュータ技術の進歩と,そのネットワークの進化によるものといえる( 2-3 参照)。

 しかし,このことは,遺伝情報だけでなく,その他(画像など)の研究素材情報についてもいえるはずである。画像や測定値などの様々な素材情報の公開・共有が実現すれば生物科学の将来にとって有用であろう。

遺伝情報以外の素材データベースはサーバ分散型になる
 ただし,すでに 2-3 でも指摘しているように,遺伝情報とその他の素材情報とでは,情報の性質の違いから,サーバ上でのデータの管理や利用の仕方にも違いが生じると予想される。遺伝情報は要素が均一なためデータを集中させることができて,そこではホモロジーサーチなど高度なデータ処理が可能である(そのためには専門家による管理が必要となる)。

 一方,画像などその他の素材情報は要素が多種多様で,個々のデータサイズも大きい場合が多い。そのため,集中して管理するのは難しい。ないしは集中させてもあまり意味がない。なぜなら仮に集中させたとしても,遺伝情報の場合のように,高度なデータ処理は期待できないからだ。したがって,必然的にデータは分散したサーバ上で個々のデータの特性に応じて独自の管理を行なう方向へ向かうだろう。その場合,分散した各サーバのすべてに専門家を配置するわけにはいかないので,データを公開しようとする研究者自身による管理が必要になる。

 そうは言っても,サーバの維持・管理など日々研究や教育に忙殺されている研究者にできるはずがない,と感じる人もいるだろう。しかし,既述したように,サーバの開設や維持管理そのものは,技術的にはさほど難しいことではない。ネットワークに接続されたパソコンとサーバ用のソフトがあれば,後は公開すべきデータを準備するだけでよいのである。実際,我々データベース作成グループのメンバー三名も本来の研究を遂行し,かつ教育やその他の業務のノルマを果たしながら,同時進行的にサーバを管理し,アリや原生生物のデータベースの構築作業を行なっている。

 ただし,それが簡単なのは,コンピュータ操作の基礎的トレーニングができている者にとってであって,そうでない者には,コンピュータ操作そのものが十分に理解できていないために,サーバの管理が難しくみえてしまうようである。

 しかし,サーバの管理は,研究者全員がやる必要はない。各研究グループ,研究機関ごとに管理できる人材が何人かいる程度で十分である。今日ではコンピュータ操作の基礎的トレーニングができている生命科学研究者も徐々にではあるが増えつつある。

 したがって,やろうという意志さえあれば,多くの場合,技術的な障害や管理者の不足は克服できるはずである。要は研究者自身がその必要性を感じるか否かにある。
 

表5-1 研究者によるネットワークを利用した情報公開の必然性と意義
必然性 ●ネットワークでは誰もが情報の発信者となりえる
●多くの研究者は情報発信が可能な環境をすでに与えられている
●多くの研究者は発信すべき情報を所持している
 
意 義 ●新しい公報手段を利用することの優位性 (Broadcast or perish)
●研究システムの効率化・高度化 
●利用者層の拡大(研究以外の利用も可能)← Journalとの違い
●社会(納税者)への還元   ← Networkは誰でもアクセス可能!
 

ネットワークでは誰もが情報発信できる
 そもそも,インターネットの最大の特徴は,誰もが情報の受信者であると同時に発信者にもなりうる,という点にある。これは,従来の印刷や放送などのマスメディアにはなかったまったく新しい特徴である。印刷や放送では,限られた情報発信者と大多数の聴衆という1対多,かつ,基本的に1から多へ一方通行にしか情報は流れない。だが,インターネットでは,多対多で,かつすべての構成員の間で双方向に情報の流れが起こりうる。

研究者は本来情報発信者である
 この新しい情報媒体を研究者が利用しないというのは本来ありえない。なぜなら,研究者に与えられた社会的責任は,誰にも知られていなかった新しい知見や発想を生み出して世界に紹介することにあるからである。情報を創造し発信することこそが研究者の役目である以上,そのために利用可能なメディアは最大限利用するのが当然であろう。その意味で,優れた情報発信機能をもつネットワークを利用するのは自然の流れといえる。

情報発信に必要な環境はすでに整っている
 しかも,幸いなことに,ここ数年の間に,ほとんどの国公立の大学や研究所,それに少し遅れて多くの私立の大学等では,ネットワークのハード的環境整備が急速に整ってきた。そこでは(教員・研究員等のスタッフであれば)誰でも自由に利用できるネットワークが24時間休まずに稼働している。したがって,後はホストマシンとなるパソコンとサーバ用ソフトを用意できれば,それは即世界に開かれた情報発信基地となるのである。

 以上のように,研究者は情報を生産し発信するのが本務であり,また,それをネットワークを通じて行なうために必要な環境がすでに十分整備されている,という点で,研究機関からの情報発信は必然的に起きて然るべきなのである。

 つぎに,その意義について考えてみる。

新しい公報手段を使うことの優位性
 これもいわずもがなのことではあるが,情報発信者である研究者にとっては,自分が発見・考案した知見をより多くの人々に知ってもらえるのは最大の名誉であり,そのために日々努力を重ねているわけである。従来は,それを実現するための手段としては,主として印刷メディアが利用されてきた。印刷メディアを使って論文・書籍等の形で研究成果をまとめ公表するのが基本であり,これに,学会での発表や新聞・放送などのマスメディアを通じて,周知徹底が計られてきた。
 しかし,既述したように,近年になって登場したインターネットは,現在1億人近い利用者を抱えており,そこでの情報の伝達効率や反響の即時性を考えると,従来のメディアをはるかに上回る機能をもっている。したがって,これを利用して自らの研究成果を世界に向けて公開・公表すれば,研究競争の上で優位に立てるはずである。

研究システムの効率化・高度化
 そのような個人的立場を離れて,科学全体からみても,ネットワーク上で情報を公開することは様々な点で,研究・教育環境を機能的に向上させると期待できる。かつて,W.Gilbert氏は,DNAデータベース等の発展は,研究のための素材情報(塩基配列等)を提供する者と,それを使って特定のテーマを解析・考察する者といった具合に研究プロセスの分業化を引き起こすだろうと予想し,後者の立場を主とする分野を Desktop Biologyと呼んだ。

 従来のように素材情報が公開されていない場合は,既存のデータがあっても,異なる研究者が同じ材料を使って同じデータを繰り返して出すことがまま起こるのは避けられない。しかし,これはよく考えると,研究費の出所が公的資金である場合は,科学全体としては大変な税金の無駄遣いをしていることになる。
 ネットワークのなかった時代はそれもやむを得ないこととして了解できるが,今日ではなるべくならば税金の無駄遣いをしない方向へ社会のシステムを変えていくべきであろう。

利用者層の拡大
 従来の印刷メディアでは,一部の一般受けのする研究テーマは別として,専門性の高い内容の論文や書籍は,ほとんどの場合,同じ分野の,あるいは共通の研究テーマを持つ研究者の間でしか行き渡らない。実際,多くの科学ジャーナルが市井の書店に並ぶことはほとんどない。専門家が読む雑誌はその専門家が所属する研究機関にしかない場合が多い。そして,そのような印刷メディアの地理的な配置じたいがますます一般の目から専門的知識を遠ざける結果をもたらしている。

 しかし,インターネット上で情報を公開した場合は,その専門性のいかんに関わらず,基本的には誰でも自由に内容を閲覧できる。これは,従来あった地理的ないし物理的な「情報の障壁」が存在しないことを意味し,科学情報の在り方に今後大きな影響を与えると予想される。

 不特定多数の目にさらされることの弊害についても考慮する必要はあるだろうが,公的機関の情報公開が社会的に求められている今日では,研究情報(ないし学術情報)は内容のいかんに関わらず公開することを大前提とすべきであり,非公開にするのは必要最小限に留めるべきであろう。

 DNAの配列データのように利用目的が限定される情報については,公開しても一般の利用はあまり期待できないが,アリや原生生物のように画像を中心とした広域データベースの場合は,専門の研究者ばかりでなく,様々な方面からの利用が期待できる。実際そのとおりの結果となっている。アリと原生生物の場合は,研究者以外に,一般の個人ユーザや企業からのアクセスがかなりある。とくに際だっているのは,教育関係者の利用である。

 次章で紹介するように,我々はデータベースのネットワーク公開と同時にCD-ROMの配布活動を行なっているが,その過程で配布を希望する教員から教育現場の様々な実情が伝えられた。それによると,小中高校では,パソコン等を使った教育をするよう要請されているものの,そのために利用できる教材ソフトが圧倒的に不足しているという。かりにあったとしても,その多くは有料であり,限られた予算の中から,教室授業に必要十分な量の教材ソフトを購入する余裕はない。そのような状況にあるため,ネットワークでの情報公開と,それに伴ったCD-ROMの無料配布は大変助かるとの反響を得ている。

 以上のように,学術情報のネットワーク公開は,従来限られた世界でしか流通しなかったものを広く一般大衆が利用できることを意味し,このことにより新しい情報の利用形態が生まれることが期待できる。

納税者への利益還元
 また,学術情報を生み出す元になった研究資金の多くは公的資金(すなわち税金)のはずであるから,ネットワークを介して広く一般に学術情報を公開することは,結果的に納税者へ利益還元をしていることにもなる。そう考えると,学術情報のネットワーク公開は研究者にとって当然のノルマともいえる。
 論文等,従来の印刷メディアでは素材情報(写真や測定値等々)の多くは公開できない場合が多かったが,そのような「手許に残った」素材情報といえども,それが公的資金を使って生産されたものである以上,公のものである。したがって,それらはネットワークを介して可能なかぎり一般公開するのが研究者の社会的責務であると言ってもよい。

 以上のように,研究者が自らの情報をネットワークを通じて公開することは,必然であると同時に様々な意義(もしくは義務)がある。しかし,それにもかかわらず,現実には,そのような情報公開の動きは期待するほど盛んではない。これはいったい何故だろうか?その点について次に考察する。