右岸側の岩盤,左脇に水たまりがあった(長瀞町),13:37-13:38
2枚目:その「水たまり」を望遠撮影。原生生物はあまりいそうにない。
橋の先で右(南)の様子を撮影(長瀞町),13:39
右の竹やぶの先から川岸に降りる道がないか探したが,なさそうだ。
橋の北側へ行く前に,白鳥橋から下流側の様子を見てみることにした(長瀞町),13:40
白鳥橋から下流側を眺める(長瀞町),13:40
1枚目:対岸(左岸)はほぼ切り立った崖だ。
2枚目:既述したように,右岸側には広い河川敷が見える。あそこへ近付けるか,北へ川沿いの道を歩いてみることにした。
民家脇の坂を下っていく,前方で右にカーブ(長瀞町),13:44
近くの飼い犬が私に気付いてさかんに吠え出した。
道の途中から河川敷の様子を望遠撮影(長瀞町),13:46
岩畳のような場所は無さそうだ。砂地に水が溜っているが,あそこで採集しても無意味。
ここで引き返すことにした。
10分ほどで樋口駅へ戻った,ここを右折(長瀞町),13:56
秩父鉄道の線路を渡り,樋口駅のホームへ上がる(長瀞町),13:56
寛保2年(1742)の大洪水の案内板があった(長瀞町),14:03, 14:06, 14:06
1枚目:望遠撮影。1742年には,中央に「水」と書かれた青い線まで水位が上昇したようだ(注1)。
とすると,岩畳も??とやや気になった。
2枚目:GPSで現在の標高を確認。129 m。国土地理院の地図でも,ここの標高はおよそ130 mだった。
一方,さきほど訪れた岩畳付近の標高も推定で 130〜140 m前後。
ということは岩畳も寛保2年の大洪水で水を冠ったのだろうか?
おそらくギリギリというところだろう(注2)。
注1:この辺は川幅がやや狭く,曲ってもいるので流木などで一時的に水がせき止められて水位が上昇したのでは,という推測もある。
岩畳付近も場所によってはだいぶ川幅が狭い。
とすると,寛保2年の洪水時に水を冠った可能性は否定できない。
案内文の最後に「この小学校の裏に,当時の水位を「水」という字で刻んだ岩(寛保洪水水位磨崖標)があります。」
と書かれている。この寛保洪水を扱った本(高崎哲郎著,「天,一切ヲ流ス」鹿島出版会,2001年)があった。
入手して読んでみたところ,43頁に「寛保水位磨崖標(埼玉県長瀞町)」としてその写真が掲載されていた。
この本によると,寛保洪水は,関東甲信地方に甚大な被害をもたらしたそうで,
この付近の水位は「最高六〇尺(約一八メートル)」に達したという。
画面の青色の線が「約一八メートル」の最高水位ということなのだろう。
注2:3週間後の2012.06.17に再び長瀞を訪れたが,その際,GPSで標高を確認したところ,
135 m前後の値を示した。
ということは岩畳はギリギリで水を冠らなかった可能性が高い。
最大の洪水時にも水を冠らないことで,岩畳の「四十八沼」は湿原の池塘と同様,安定した水環境が保たれているといえる
(2012.6.20追記)。
その後,長瀞にある「埼玉県立自然の博物館」が発刊している「自然史だより」に,岩畳が冠水した際の記録が掲載されている
のを「発見」した。毎年ではないが,荒川が増水した際にはときおり冠水するようだ(2013.02.14追記)。
ほぼ定刻(14:13)通り羽生行きが入線(長瀞町),14:14
寄居駅で東武東上線に乗換える(寄居町),14:24-14:25
1枚目:ほぼ定刻(14:23)通り寄居駅に到着。階段を上がる。
2枚目:樋口駅で購入した切符を窓口に出して,いったん改札を出てから,
Pasmoを使ってふたたび改札を通り,東上線のホームへ。
定刻通り小川町駅に到着,向いに停車中の急行池袋行きに乗り換えた(小川町),14:59
目 次 へ 2012.05.27, 10:53 - 14:07 |