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2010.12.05, Part XII

在家橋〜八丁橋〜見沼通船堀沿い〜東浦和駅

前回同様,在家橋はそのまま橋の袂を横断する(川口市),14:53-14:54

昨年末,在家橋の袂を横断した時の様子(2009.12.20,15:02撮影)。

芝川サイクリングロードを北北東へ(川口市),14:55

在家人道橋の脇を通過(川口市),14:56

川口短期大学前を通過(川口市→さいたま市),14:57

通船堀大橋をくぐる(さいたま市→川口市),14:58

前方に見えて来たのが八丁橋(川口市),14:58-14:59

八丁橋の袂を横断(川口市→さいたま市),14:59

八丁橋の脇にある人道橋を渡りつつ芝川の上流を撮影(さいたま市),14:59

見沼通船堀沿いを西へ(さいたま市),15:00

見沼通船堀,西縁第一の関(さいたま市),15:01

見沼通船堀,西縁第一の関(さいたま市),15:01-15:02

見沼通船堀,西縁第一の関(さいたま市),15:02
注(2013.01.12追記):見沼通船堀は日本初の閘門式運河で1731年(享保16年)に完成した(注の注)。 見沼代用水西縁〜芝川〜見沼代用水東縁をむすんで年貢米などを輸送するのが目的だった。 しかし,芝川は見沼代用水西縁&東縁よりも,およそ3m低い位置を流れていた。 そのため,西縁〜芝川間,芝川〜東縁間のそれぞれにパナマ運河にあるような閘門が設置された。 記録によると,1831年(天保2年)には通船堀を経由して数千俵単位で御廻米の輸送が行われ, その他にも穀類・野菜・薪・肥料・乾物・雑貨等,様々な物資の輸送が行われた。 現在の見沼通船堀からは想像もできないほど,かつては賑わっていたようだ。
「見沼通船株式会社」が通船事業にあたっていたが,明治以降,鉄道輸送,自動車輸送の発達にともない衰退, 1931年(昭和6年)2月に廃止された (参照:金井忠夫著,利根川の歴史-源流から河口まで,日本図書刊行会,1997)。 通船堀が利用されていたのは1731〜1931までということで,ちょうど200年続いたことになる。 結構長い。今では想像しにくいが・・・。
注の注:見沼代用水の開削が完了したのが1728年(享保13年)2月なので,その3年後に通船堀が完成したことになる。

見沼通船堀沿いを西へ(さいたま市),15:02-15:03

見沼通船堀沿いを西へ(さいたま市),15:03-15:04

つきあたって左折(さいたま市),15:04

県道103号へ出て右折,附島橋を渡る(さいたま市),15:05

東浦和駅に到着(さいたま市),15:09
この後,自転車を折り畳み,輪行袋に入れて駅舎内へ。

ホームに降りるとほどなく復路の電車が到着した(さいたま市),15:16

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2010.12.05, 11:42 - 15:16