学術審議会 学術情報資料分科会
学術資料部会
(参考資料)
大学における学術標本の現状
学術研究の所産として生成され,また研究課題に沿って体系的に収集された学術標本は,これまでの学術研究の発展過程を証明する貴重な資料であると同時に,自然史,文化史等の研究に不可欠な資料として重要な役割を果たしてきた。
大学等においては,学術研究活動に伴い様々な学術標本が産出されているが,近年の分析法や解析法の目覚ましい発達によって,学術標本から新たな学術情報を生み出すことが可能になったこと等により,多面的な情報を有する学術標本を実証的な研究・教育に活用することの必要性が急速に高まってきている。
本部会では,このような状況にかんがみ,大学における学術標本の収集,保存・活用体制のあり方について,我が国の大学における実態調査や諸外国の主要な大学のユニバーシティ・ミュージアムの実情把握を行うことなどにより,慎重に審議を行ってきたが,このたびユニバーシティ・ミュージアムの設置を中心として審議結果を中間的にまとめたので報告する。
1 学術標本は,自然史関係の標本や古文書・古美術作品等の文化財に限定されるものではなく,学術研究により収集・生成された「学術研究と高等教育に資する資源」である。したがって,それぞれの研究・教育分野において学術標本となり得る資料は極めて多岐にわたり,その種類・形状・規模も多様である。しかし,ここでいう学術標本とは,それらすべての資料を指すのではなく,学術研究の目的で収集あるいは生成されたもののうち,学術研究用の生物,不動産や構築物等の大型の資源,既に図書館・文献資料センター等で保存・活用されている文献等を除いだ有形の1次資料を対象とする。
2 学術標本は学術研究の進展に伴って収集あるいは生成されているが,学術標本を保存収納する施設設備や整理保管要員の不足等のため,現状では,大学においては研究室の一隅で個々の研究者の責任において保存管理されており,ラベル添付等の基礎的な整理が未完了で1次資料にさえなり得ていない状況が多数見受けられる。したがって,学術標本は再現不可能な貴重な資料であるにもかかわらず,学術標本の目録化・データベース化に取り組めないでいるケースや,研究者の異動に伴って学術標本が廃棄されるケースも生じている。このような保存管理状態にあるため,研究室の担当者など学術標本の所在と種類を熟知するごく限られた研究者しか当該学術標本を利用することができない。また,研究室や研究者の努力によって1次資料化された学術標本であっても,保存・活用の体制が整備されていないため,部外者の利用はほとんど不可能な状態にある。つまり,研究・教育にとって貴重な資源であるにもかかわらず,学術標本の多くは十分な活用ができない状態に置かれている。この状態は,欧米と比較するなら悲惨とも言えるほどであり,我が国における研究と教育の活力を著しく阻害している大きな要因でもある。
3 多くの学術研究が学術標本の調査・分析から出発していることから明らかなように,学術標本は学術研究の基礎である。同時に,例えば,自然人類学の標本として保存されてきた貝塚出土の人骨が今日ではそれからDNAを抽出して遺伝学の資料として活用されているように,学術標本はいずれも多面的な学術情報を内包している。特に近年は,DNA分析やアイソトープ分析など,新しい分析法や解析法が開発されたことに伴い,特定の研究分野で収集された学術標本であっても,異なる研究分野の研究者によって別の角度から研究・教育の資源として利用されることが増大している。この観点から学術標本の保存とその多角的な活用を容易にする各種情報の整備・公開や,学術標本自体を閲覧調査できる体制の整備が各方面から望まれている。
4 国際的評価が確立している欧米の多くの大学は,いずれも豊富な学術標本を収蔵した ユニバーシティ・ミュージアム(以下「ミュージアム」という。)を設置しており,それらのミュージアムは研究の場であることはもとより学術情報の発信・受信基地となっている。また,ミュージアムは「社会に開かれた大学」の窓口として研究成果の展示を行うなど,活発に機能している。
1 すべての学術標本は,体系的に分類されて保存・出納可能な図書館の文献のように,それを収集し,研究した研究者を介さずとも検索・取り出しが可能で,研究・教育に自在に活用できる状態に保管しておくべきである。しかしながら日々収集あるいは生成されているすべての学術標本を公開・活用できる状態に保管することは,現状の限られた施設・人員・予算などの各種の制約の下では,ほとんど不可能といっても過言ではない。そこで,学術標本の特色,学術標本を活用した研究実績等を考慮して選ばれた学術標本群であり,1次資料化が完了しているか,若しくは1次資料化が進行中のものを保存・活用の対象とする。ただし,群を構成していなくとも,例えば学術誌に公表された学術標本などのように,少数であっても学術的に保存の義務あるいは意義を有するものについては,保存・活用すべき学術標本とする。
なお,1次資料化が困難な学術標本については,廃棄し,収蔵スペースの有効活用を図ることも必要である。
2 保存・活用の対象となる学術標本は,公開・活用に資するため,所在情報,1次資料としての特性情報に関するデータベース化を行う。この場合,学術標本を多方面の利用者が活用できるよう画像データベース化を図ることが望ましい。それによって研究者や学生,地域住民等の利用者に具体的なイメージを提供できるとともに,学術標本の稠密収蔵が可能となり,併せて学術標本の出納の一層の円滑化が期待できるからである。
3 保存されている学術標本は当該分野の研究者の利用に供されることはもちろんであるが,多面的な学術情報を内包しており,研究成果を学術標本を用いて展示・公開することは,異なる分野の研究者にも新たな研究構想を与える契機となるのみならず,「物」と接することにより創造的探求心を育むなど学生の教育にとっても極めて重要な環境を提供することになる。
4 人々の学習ニーズが高まる中で,豊富な知的資産を有している大学は積極的に地域社会に協力することが求められており,学術標本の展示・公開等を行うことにより,人々の多様な学習ニーズに応えることが期待されている。また,展示・公開等は,次代を担う青少年に学問を身近に感じさせるための環境を提供することになる。
5 学術標本の保存・活用を有効かつ円滑に行うには,学術標本の体系的な収集・整理,・保存・公開を可能にする研究者と支援職員,それに専用の施設を確保することが必要不可欠であり,学術標本群と要員と施設の間に調和のとれた有機的な関係を樹立することが肝要である。
(1)我が国は現在急速に,国際化,情報化,高齢化,多様化の社会に向かっており,大学が果たす役割と大学に対する社会の要請もおのずと変わりつつある。
国境を越えた競争原理が働く国際化の中で,我が国の大学は世界に向かって独創的な研究成果をあげ,良質な学術情報の発信基地として機能することが要請されている。
また,環境問題,都市問題のように専門分化した特定の学問分野だけでは対応しがたい多様な問題への対応や,高齢化等急速に変化しつつある社会における人々の高度かつ多様な学習ニーズに対応し得る大学への変革も求められている。
このような社会の要請にこたえるためには,総合的・学際的な研究・教育体制を整備することが必要である。
そのための方策の一つとして,貴重で多様な学術情報を内包しており,分析法や解析法の発達によってさらに多くの分野に豊富な学術情報を提供してくれる1次資料の活用を図ることができるミュージアムの設置は極めて有効であり,学術研究の基盤である実証的研究を支援するものである。
また,1次資料に関する学術情報の発信・受信基地としてこのミュージアムを機能させることは,社会が要請する「開かれた大学」への具体的で有効な対応策である。
(2)ミュージアムを必要とする大学の内在的要因としては,次の諸点を挙げることができる。
第一に,複合的な要因によって惹起される今日的な課題に対応するため,自然科学・人文科学等のいずれの分野でも,隣接分野だけでなく異なる分野の学術資料を研究・教育資源として活用する必要性が急速に高まっている。若手の研究者や大学院生は,従来の学問分野の枠にとらわれない研究を志そうとしても,従来の学術標本保存体制ではこれにこたえることが困難である。多様な需要に対応できる研究・教育環境の整備が是非とも必要である。
第二に,我が国の実証的な研究・教育は欧米のそれに比べて脆弱と言われる。それは多くの1次資料と接触可能な環境整備が十分に行われていないためである。その結果,研究・教育の内容が皮相化しており,豊かな成果をあげることが可能な,また,それから派生する2次,3次の成果をあげるような本質的で独創的な活力に欠けている。このような状況を改善するための具体的,効果的方策として,学生や研究者に1次資料との接触機会を増大させる場を設置・整備することが必要である。
第三に,環境問題の研究や先端的研究に典型的な例が見られるように,現代の学問は総合化と同時にシステム科学への傾向を強めている。このような傾向に柔軟に対応できるのが1次資料であり,その集積と整備は今後の学問の展開にとって極めて重要である。
ミュージアムとは,大学において収集・生成された有形の学術標本を整理,保存し,公開・展示し,その情報を提供するとともに,これらの学術標本を対象に組織的に独自の研究・教育を行い,学術研究と高等教育に資することを目的とした施設である。加えて,「社会に開かれた大学」の窓口として展示や講演会等を通じ,人々の多様な学習ニーズにこたえることができる施設でもある。
したがって,ミュージアムは単なる学術標本保存施設又は収集した学術標本の展示を主たる目的とする施設ではなく,下記の機能を持つ必要がある。
(1)収集・整理・保存
大学において収集・生成され,学術研究・教育の推移と成果を明らかにする精選された有形の学術標本を整理・保存し,分類して収蔵する。
(2)情報提供
収蔵した学術標本を整理し,収蔵品目録を刊行することは当然であるが,さらに広範多様な利用に供するため,画像データベースを構築することが必要である。このことにより,ネットワークを通じて全国的な利用に供することも可能となる。また,研究者や学生のみならず,地域住民等からの学術標本に関する相談に応じ,必要な情報を提供する。
(3)公開・展示
収蔵した学術標本を研究者に公開し,調査研究に供するとともに,必要に応じて.貸出しや重複標本の交換等も行い,有効な活用を図る。学生に対しては学術標本に直接接する機会を提供し,実証的で充実した教育に資することができる。また,ミュージアムに収蔵する学術標本を用いた研究成果の展示を行い,論文等によらない新しい形式の公表の方法を研究すると同時に,学内の研究成果を公表する場とする。
さらに,大学における研究成果については,地域社会に積極的に発信することが求められており,ミュージアムにおいては展示や講演会等を通じ,大学における学術研究の中から生まれた,多くの創造的,革新的な新知見等を地域住民に積極的に公開し,周知することが望ましい。
なお,ミュージアムを「社会に開かれた大学」の具体的対応として円滑に機能させるためには,今後,社会のニーズをも踏まえ,管理運営方法について工夫することも必要である。
(4)研究
学術標本群の充実やその有効利用を図るとともに,学術標本を基礎とした先導的・先端的な取組を支援するため,ミュージアム独自の研究を計画し実行する。この場合,ミュージアムに所属する研究者が中核となるが,大学内外の研究者の共同研究として行うことが望ましい。
(5)教育
学術標本を基礎とした大学院・学部学生の教育に参加するとともに,博物館実習をはじめ大学における学芸員養成教育への協力を行う。また,一般の博物館の学芸員に対する大学院レベルのリカレント教育や,人々の生涯にわたる学習活動にも積極的に協力することが望ましい。
(1)設置形態
ミュージアムは,学術標本という多面的な学術情報を内包する資料を保存し,活用する施設であるので,独立性のある学内共同利用施設として設置する必要がある。これにより,大学内の様々な分野の研究者の協力を得ることができると同時に,大学内に分散されている学術標本をより効率的に活用できるからである。また,学部等に設置されている既存の列品室や資料室は,当該部局の研究教育事情を尊重すべきであるが,収蔵資料の学術情報はミュージアムのデータベースに収納し,広範な活用を可能とする体制を整備することが望ましい。
(2)職員体制
ミュージアムを研究・教育に資する施設として有効かつ効率的に運営するためには,少なくとも当該ミュージアムの中核を形成する学術標本の研究者を専任として配置する必要がある。
また,学術標本の整理・保存・管理・公開に関する業務に携わる専従の職員を配置する必要もある。 一方,ミュージアムが収蔵する学術標本のすべての分野に対応する専任の研究者と職員を網羅的に配置することは現実的に不可能である。したがって,学内研究者の併任制度,定年退職した研究者や学外研究者の客員制度,それにボランティア制度などを積極的に整備してその活用を図るべきである。
(3)施設の整備
ミュージアムは学術標本を収集・整理・保存・公開するとともに,これらの学術標本を対象に研究を進め,情報を発信・受信する施設であるので,これらの機能に応じた施設設備が必要である。その規模は収蔵する学術標本の種類や数量等によって異なるが,ミュージアムの業務を行う上で,効率的で調和のとれた施設として整備する必要がある。
(4)ユニバーシティ・ミュージアムの設置方針
ミュージアムは,学術標本を活用した研究に実績を有し,精選された学術標本群の大きな蓄積をもち,それらの1次資料化がほぼ終了しており,学術標本を活用した研究・教育が発展する可能性のある大学に,地域性と学術標本の種類をも考慮して設置することが望ましい。
(5)ユニバーシティ・ミュージアム間の連携
設置された・ミュージアム及び既存の大学の類似施設相互の連携を強化するため,定期的に開催されるユニバーシティ・ミュージアム協議会を設置し,学術標本情報のネットワークの整備や学術標本自体の貸借・移管等について協議する。ミュージアムの活発な運営のためには,この連携体制に一般の博物館も参加できる形にすることが望ましい。
諸外国のミュージアムも,学術研究と高等教育に資する1次資料の収集・活用という共通の目的を有している。したがって,ミュージアムが保管するそれぞれの地域の1次資料群を,国を越えて活用できるネットワークを構築し,個別の研究に世界的規模の視野と位置付けを与えることが望ましい。そのことは,現在多くの学術研究が要求されている国際的貢献にも大きく資することになる。
我が国の現在の社会・経済情勢の中にあって,新たに大学にミュージアムを設置することには多くの困難を伴うことが予想される。しかし,ミュージアムの設置は,新たな学術研究を支える基盤を構築しようとするものであり,関係機関において着実かつ速やかに対応することが望まれる。殊に国立大学については,精選された学術標本が極めて多いことから,この報告の趣旨を踏まえ,直ちにミュージアムの設置に着手することが望まれる。
また,これまで大学で保管されてきた学術標本の画像データベース化と情報公開は,学術標本の保存・活用の基礎であり,ミュージアムの設置に並行して実施可能な機関等において,直ちに着手することが必要である。
なお,ミュージアムや図書館など学内の関連施設をネットワーク化し,大学全体を地域社会に対する知的・文化的情報の発信拠点とすることも今後検討すべき課題であると考えられる。
〔委員〕
岡 田 善 雄 財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長
河 合 隼 雄 国際日本文化研究センター所長
鈴 木 昭 憲 東京大学副学長(部会長)
高 久 史 麿 国立国際医療センター総長
原田(太田)朋子 国立遺伝学研究所教授
〔専門委員〕
○ 青 柳 正 規 東京大学総合研究資料館長(文学部教授)
岩 倉 洋一郎 東京大学医科学研究所 教授
岩 槻 邦 男 立教大学理学部 教授
◎ 岡 田 茂 弘 国立歴史民俗博物館 情報資料研究部長
○ 小 山 博 滋 国立科学博物館 植物研究部長
鈴 木 磨 郎 前東北大学加齢医学研究所 癌細胞保存施設長
土 井 良 宏 九州大学農学部 附属遺伝子資源研究センター長
野 村 達 次 財団法人実験動物中央研究所長
古 田 善 彦 岐阜大学農学部 教授
本 田 武 司 大阪大学微生物研究所 附属菌株保存施設長
○ 水 谷 伸治郎 日本福祉大学情報社会科学部 教授
○ 森 脇 和 郎 総合研究大学院大学 副学長
渡 辺 隆 夫 京都工芸繊維大学繊維学部 教授
◎印は,大学博物館ワーキンググループ主査
○印は, 〃 専門委員(平成7年6月16日現在)